. 2日目(2012年12月30日)



この日は会津若松市内だけ回りました。
移動手段は周遊バスの「ハイカラさん」と「あかべぇ」、タクシーです。

(1)東山温泉
くつろぎの宿 新瀧
朝食です。バイキング形式でした。
















くつろぎの宿 新瀧の外観です。
















くつろぎの宿 新瀧の別館、不動滝の外壁には、土方の絵がかいてあります。
















向瀧
ここも土方ゆかりの湯との説があります。「きつね湯」と称し、会津藩士の保養所だったところ。
















瀧の湯
ここも土方ゆかりの湯との説があります。会津藩の共同湯があったとされます。東山温泉の入口近くにあります。

















(2)渋川問屋
120年以上もの歴史をもつ元海産物問屋だそうで、とてもレトロな建物。七日町駅の近くにあります。中には入りませんでしたが、郷土料理を囲炉裏などを眺めながらいただくことができるそうです。

















(3)阿弥陀寺
ここには斎藤さんのお墓があるとのことで行ってきました。
















本堂
















斎藤一の墓
斎藤さんと、妻の時尾の墓です。ずっと行きたかったので、墓参できてよかった。斎藤さん本人の希望により、ここにお墓があるんですよね。
















会津藩戦死者の墓
明治戊辰戦役殉難者墓の碑と墓があります。
戊辰戦争で戦死した会津方の1281名が葬られています。 東軍殉難者の埋葬が許可された後、阿弥陀寺には大きな穴が掘られて、風霜にさらされていた遺体が城下各所から運ばれたそうですが、あまりの遺体の多さ(1281柱)に穴が足りず、小山のようにうずたかく積み上がったと言います。それでも足りずに、さらに長命寺にも墓(145柱)が作られました。
















御三階
御三階は戊辰戦争の際に、重臣たちが密議で使用した鶴ヶ城の櫓で、弾痕の跡も残されています。
明治3年に阿弥陀寺に移築されてからは、一時は阿弥陀寺の本堂として使われていたそうです。

















(4)如来堂
家老萱野権兵衛が布陣していた高久村で戦闘が始まったため、斎藤一は如来堂に陣を張りましたが、慶応4年9月4日に新政府軍に奇襲され、10名ほどが落命、敗走したと伝えられます。ここで斎藤も戦死したと思われていましたが、実は斎藤を含む数名は如来堂脱出に成功していました。
その後の調査で、ここからはたくさんの白骨が出たといわれます。
如来堂はかなりだだっ広い田んぼの中にぽつんと建ってるので、どうやって逃げたのか気になります。

































(5)長命寺
長命寺は会津戦争の時、会津軍と西軍の激しい攻防戦が繰り広げられた激戦地です。

長命寺戊辰戦懐古碑
















弾痕
外装の塀には、弾痕の跡がたくさん残っています。
















本堂
















会津藩戦死者の墓
阿弥陀寺に葬りきれなかった145名の墓です。

















(6)会津新撰組記念館
七日町通りにある、店蔵(明治22年築)を利用した資料館。新選組関連の資料が充実してました。他にも、大河ドラマ八重の桜関連のものも。

















(7)清水屋旅館跡
清水屋は宇都宮城の戦いで脚に負傷をした土方が、治療のために宿泊したところです。 松平容保公の侍医・馬島瑞園の治療を受けたそうです。
宇都宮城の激戦からのがれて来た土方歳三、島田魁、中島登、漢一郎、畠山芳次郎、沢忠助、松沢乙造たちは、清水屋で他の隊士たちとも再会しました。
現在は大東銀行会津支店が建っています。

































(8)斎藤屋跡
斎藤一率いる会津新撰組38名が、仙台へ行く新撰組隊士たちと決別し、慶応4年8月22日に一泊したそうです。
住所は会津若松市大町1-9。

















(9)会津藩校日新館跡
寛政11年に、会津藩第5代藩主容頌が家老田中玄宰の建言により城下に建設した会津藩校日新館跡です。
藩士の子弟は10歳で就学が義務づけられ、文武両道の修得に励んだそうです。写真は左は日新館跡碑、右は須田新九郎頌徳碑です。
須田新九郎は藩の御用商人で日新館建設にあたり、多額の寄付を行った人物だそうです。
会津若松市米代1丁目にあります。

















(10)鶴ヶ城で昼食
鶴ヶ城で喜多方ラーメンを食べました。おいしかった。

















(11)鶴ヶ城
慶応4年閏4月5日に白河出陣のため登城した山口次郎(斎藤一)が、若殿である松平喜徳候に拝謁し、金子を受領した記録があります。
母成峠の戦いから敗走した新選組は、鶴ヶ城への入城を拒否されており、新選組は城外でゲリラ戦を行っていたようです。
鶴ヶ城は約1ヶ月にわたる籠城戦を耐え抜いた城でしたが、明治7年に明治政府により取り壊されました。 その後、城郭一帯が政府に取り押さえられていましたが、明治23年に払い下げとなり、当時仙台七十七銀行の頭取であった旧会津藩士遠藤敬止が2500円を投じて落札し、松平家に寄贈したことで、城は会津若松市に戻ってきたそうです。

天守閣
現在建っている天守閣は、地元の努力によって昭和40年に復元されたもので、中は郷土博物館になっています。
















天守閣からの眺め
















鉄門
戊辰戦争時、松平容保はここで指揮をとったといわれています。
















走長屋
天守閣と鉄門をつなぐ長屋で、武器などが貯蔵されていたそうです。現在はお土産屋さんが入ってます。
















干飯櫓
保存食である干飯の貯蔵庫でした。平成13年に干飯櫓と南走長屋が復元されました。
















鶴ヶ城稲荷
この稲荷神社は約600年まえに鶴ヶ城ができた頃から守護神として祀られており、当時はこれより東手の三ノ丸にありましたが現在の地にうつされたそうです。
















武徳殿
瓦葺きの立派な武道場で、剣道を教えているみたいです。隣には弓道場もありました。

















(12)飯盛山
白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊です。
白虎士中二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、郊外の飯盛山へと落ち延びましたが、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を、鶴ヶ城が落城したものと誤認して悲観し、総勢20名が自刃を決行、一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡しました。

白虎隊十九士の墓
















少年武士慰霊碑
白虎隊以外で戦死した少年武士たちの慰霊碑。
















松平容保公弔歌の碑
白虎隊士中二番隊自刃の報に接し、松平容保公が詠まれた弔歌。
幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽しとぞ思う
















会津藩殉難烈婦の碑
足手まといになるまいと自刃した多くの藩士の婦女子たちの慰霊碑。
















吉田伊惣次氏篤志の碑
吉田伊惣次は、白虎隊を最初に弔った会津の庄屋さんです。
新政府軍は会津の敗残兵を弔う事を禁じていましたが、白虎隊を埋葬したことを新政府軍にそれは知られ、詰問されました。
しかし彼は「私一人でやりました。村人の手は一切借りておりません」 と名乗り出て、 「死んだ者に官軍も賊軍もございません。まだ母親に甘えたい年ごろの十六、十七歳の若者たちが自ら命を絶ったのです。私の子供とも同じ年。あんな哀れな姿を見て、手厚く弔いたいと思うのは人の道。私は喜んでお裁きに服したいと思います」と死を覚悟して述べました。
新政府軍の隊長である中村半次郎は感動し「会津は武士だけではなく百姓にいたるまで立派な人間がおる」と吉田伊惣次を解き放ったとのことです。
















ローマ市寄贈の碑
白虎隊の精神に感動したローマ市が、ポンペイ廃墟から発掘した宮殿の古柱に賛美の言葉を刻み寄贈しました。
「文明の母たるローマは白虎隊有志の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
















フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10年、ドイツ大使館外交官として赴任、白虎隊の精神を知り、賞賛の証として十字章を贈りました。 「会津の若き少年武士に贈る」
















白虎隊自刃の地
































白虎隊自刃の地から鶴ヶ城方向の眺め
ここから市街地を眺めて、鶴ヶ城が燃えていると思ったんですね…。
















飯沼貞雄(貞吉)の墓
飯沼貞吉は白虎士中二番隊の一人で、咽頭に脇差を突き立てたが死にきれず、一命を取り留めました。
維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍、昭和6年2月12日に77歳で生涯を終えました。
















飯沼貞雄翁記念碑
















宇賀神堂
白虎隊十九士霊像が安置されています。
































さざえ堂
1796年に、当時飯盛山にあった正宗寺の住職である郁堂が考案した建物。
内部は二重螺旋構造になっていて、昇りと降りで同じ道は通らないようになっています。
かつては西国三十三観音像が安置されていましたが、現在は「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられています。
































白虎清水観音
白虎隊士が城下へ戻るときに喉を潤した清水が湧き出ている場所で、現在は慈母子育観音を祀った祠が建てられています。
















厳島神社
永徳年間(1381〜1383)に勧請されたといわれており、当時は宗像神社と称されました。
神仏習合し祭神である市杵島姫命は弁才天と習合し、別当には正宗寺があたりました。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により正宗寺が廃され厳島神社と改名されました。
















戸ノ口堰洞穴
白虎隊士中二番隊の隊士20名が、が戸ノ口原からお城の安否を確かめようと帰城する途中に通過した洞穴です。
今から約400年前に、猪苗代湖の水を会津地方に引くために郷士八田氏が起工し、会津藩士佐藤豊助が藩命により飯盛山の山腹約150mに人工的に穴をあけたものです。

















(13)秀長寺
東軍総指揮・佐川官兵衛は秀長寺周辺で西軍を迎え撃ち、わずかな兵力で西軍に甚大な損害を与え、これが東軍の唯一の勝利となりました。
如来堂の戦いから脱出した山口二郎(斎藤一)、池田七三郎、久米部正親、吉田俊太郎、河井鉄五郎、志村武蔵も、会津藩の佐川官兵衛の指揮下に入ったと思われるので、ここで戦っていたかもしれません。
















本堂
















佐川官兵衛歌碑
雲水に心はまかせ澄む月の 法の鏡と世をやわたらむ
















供養塔
















秀長寺古戦場の碑

















(14)只見線
西若松駅から会津若松駅へ戻りました。

















(15)新幹線で夕食
郡山駅で駅弁を購入し、新幹線の中で夕食を食べました。
















会津 蔵出弁当
















小原庄助べんとう

















(16)お土産
会津葵、ままどおる、くるみゆべし、花ろうそく、あかべぇぬいぐるみです。
会津葵は高級な人形焼みたいな味がしてほんとにおいしかったです。


























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