. 江戸城跡(皇居)



★江戸城跡(皇居)
東京都千代田区千代田1(大手町駅などから徒歩)
明治元年1月16日、近藤と土方は江戸城に登城しました。 佐倉藩士・依田学海に鳥羽・伏見の戦いについて聞かれた時に土方は、「武器は鉄砲でなければいけません。我々は剣を佩び、槍を執って戦いましたが、一切用いることはありませんでした。」と言ったといいます。

(皇居)
二重橋(正門石橋)
明治20年12月、明治宮殿が竣工する前年に完成しました。石造りアーチ橋で、花崗岩が使用されています。アーチ部の表面を粗く仕上げ、側壁や脚柱部は切石を使って変化をもたせた西洋風で、特に照明灯や高欄は西洋建築の意匠が採用されています。
















二重橋(正門鉄橋)
皇居正門鉄橋は、江戸時代の1614年に木造で架けられた時は二重構造の橋となっていました。これが、この橋につけられた「二重橋」の名の由来となっています。






























伏見櫓
二重櫓の両袖に多聞櫓(防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの建物)を備えています。伏見櫓の名称は、豊臣秀吉が京都伏見に築いた伏見城を取り壊し、その一部を使用したという「伝」によるものです。多聞櫓は、戦国武将の松永久秀が1559年に築いた大和(奈良)多聞山城の櫓が始まりといわれています。














富士見櫓
「櫓」とは、倉庫や防御の役割を持った建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。その中で、富士見櫓は唯一の三十櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。














巽櫓
巽門の名は、本丸の東南(辰巳)の方角にあるところに由来するもので、桜田二重橋櫓とも言います。櫓は、戦略的には、「石落し」(石垣よりはみ出した出窓部)や鉄砲、矢用の「狭間」などを備えています。
















桔梗門
皇居前に美しく広がる松の緑、その北西端にある桔梗門は、いつも枡形城郭門と白壁の美しさを、お濠の水面に映しています。正式には外桜田門に対して内桜田門と呼びます。これは、大田道灌時代の大手正門であったころから、瓦に施された当家の家紋の桔梗にちなんで、この名で呼ばれ、今日まで親しまれています。




























紋を刻んだ石
桔梗門近くの石垣には、大名の門が刻まれた石があります。薩摩藩の紋がありますね。














大手門
手門は、江戸時代は江戸城の正門で本丸大手門と呼ばれ、高麗門前には大橋が架かっていました。幕府は、この一帯の左右13町に渡る石垣や枡形門などの築城を、東北の勇、伊達政宗に命じたと伝えられています。門内に入ると前方には、渡櫓の屋根を飾っていた鯱が下に降りて鎮座しています。明暦の大火(1657年)で焼失した後、1659年に大手門が再建された時のものと考えられ、刻印に「明暦三丁酉」とあります。現在の渡櫓門は大戦の戦災で焼失しましたが、皇居東御苑の開園(昭和43年)に合わせて再建されたものです。
















坂下門
江戸時代には門前の橋を渡り、枡形門をくぐって場内に入り、左の坂を登ると西の丸御殿(現在は宮殿)がありました。その西の丸の坂下にあった門なのでこの名称となりました。幕末(1862年)老中安藤正信が6人の浪士に襲撃された「坂下門外の変」は、この門前で起こりました。明治になり、橋や高麗門は撤去され、奥にあった渡櫓門の向きを北面から東面に90度変えて、現在の場所に移築されました。














桜田門
桜田門は、正式には旧江戸城外桜田門(昭和36年・国指定重要文化財)と呼ばれます。本門は、「桜田門外の変」であまりにも有名ですが、江戸時代からの遺構としても、内桜田門(桔梗門)、平川門とともに、枡形門の典型な形式を見ることができます。当時は、東海道方面の抑えとしても重要な門で、小田原口門という大きな扉なしの門があり、1620年に東国大名の助役によって、この門の石垣と枡形が完成し、1636年に修築されて現在の形式になりました。後に、関東大震災で大破しましたが、大補強工事で修築されて現在に至っています。



























宮内庁庁舎














塔の坂














松の塔














宮殿(長和殿)と宮殿東庭














南庭














北車寄とそこから見える北溜のシャンデリア














豊明殿














山下通り














蓮池濠














元枢密院庁舎














和田倉門跡
この近くに松平肥後守上屋敷跡、中屋敷がありました。
















和田倉橋
この橋より内側は、大手門や内桜田門(桔梗門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。
















田安門
現存する江戸城の遺構。



























清水門
現存する江戸城の遺構。



























皇居参観のお土産のカステラ
菊の御紋はいってますね。














(皇居東御苑)
同心番所
「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当たっていました
















百人番所
本丸と二の丸へ通じる要所である大手三の門の前に設けられた番所です。鉄砲百人組と呼ばれた、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎の4組みが昼夜交代で詰めていました。各組には同心が100人ずつ配属されていました。
















大番所
この番所は中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。前の坂を上ったところが本丸の入り口で、中雀門がありました。
















三の丸尚蔵館
天皇陛下と皇太后陛下が、平成元年6月、絵画・書・工芸品などの美術品類約6,000点余りを国に寄贈されたのを機に、これら美術品を環境の整った施設で大切に保存・管理するとともに、調査・研究を行い、併せて一般にも展示公開することなどを目的として、平成5年11月3日から行事などに支障のない限り一般に展示公開しています。
















二の丸庭園
江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、三代将軍徳川家光の名で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。 現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開の開始に当たり、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。
















二の丸雑木林
二の丸雑木林の造成の際には、樹木の移植とともに、開発されつつあった武蔵野の雑木林から土壌を移し活用しました。雑木林の中に混じって植物の根や種子、昆虫や土壌動物なども一緒に運ばれたため、羽のない昆虫(ナナフシ)が定着するなど、昆虫や下草、かん木も含めて武蔵野の雑木林らしい構造を持ったご自然が復元できました。
















ハナショウブ
















諏訪の茶屋
諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在御所等のある一帯)にありました。 この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観をもっているため、皇居東御苑の整備に当たりここに移されました。
















本丸
















天守台
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内でもっとも大きな天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。
















石室
抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の板が使われています。
















富士見多聞
「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万一に備えられていました。
















松の大廊下跡
赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(1701年(元禄14年))のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれます。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。
















都道府県の木
















梅林坂
本丸と二の丸を結ぶ要です。文明10年(1478年)太田道灌が天神社をまつり、数百株の梅を植えたので梅林坂の名がついたといわれています。現在は約50本の紅白の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます。
















汐見坂
本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。 その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができました。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。
















緑の泉
















白鳥濠
















桃華楽堂
皇太后陛下の還暦を記念して建てられた音楽堂で、1966年(昭和41年)に完成しました。八角形の建物で、屋根は、テッセンの花弁を形どっています。八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。皇太后陛下のお印の「桃」にちなんで命名されました。
















楽部庁舎



















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